江戸中期に北海道を探検した最上徳内が記した『蝦夷草子』に以下の記述が残されています。
ノボリベッという小川有り、この川上に温泉湧き出て、流れ来るため白粉と紺青をかきたてるが如し、一日も水底の見ゆることなし
この『ノボリベッ』はアイヌ語の『ヌプルペッ』、「白く濁った川・色の濃い川(一説に「霊力のある川」とも)」の意味で、地名「登別」の語源と言われています。
温泉地として、登別が使われだしたのは江戸末期。
地獄谷から硫黄の採掘を行っていた岡田半兵衛が共同浴場を作ったことから始まります。
その後、滝本金蔵が温泉旅館をはじめ、私費で道路工事を行い、湯治客が利用するようになります。
明治末期、日露戦争の傷病兵保養地として指定されたことで、知名度は全国的に広まり、旅館やみやげ物屋が並ぶ現在の登別温泉郷の原型が出来上がりました。
その後、徒歩から馬車へ、馬車から汽車、電車へと交通の整備が進むとともに、訪れる人の数は増え、登別温泉は発展してきました。